沈黙の映画評『沈黙のステルス』淡々とした劣化版ライバックを見よ
沈黙のステルス [ カレン・シュナズ・デヴィッド ]
|
それにしても、酷い邦題である。
リリース当時は「セガールに空戦なんざやらせてどうする!」と思ったものだ。それでもつい借りて観た。で、結果、全く印象に残らなかった。2001年の『TICKER』以降、すっかりアクションに力を入れなくなった(そのくせバンバンと新作を撮り続けていた)セガールおじさん、しかも邦題はどれがどれやらサッパリ判らない『沈黙の〜』ばかり。そんな中の一本として、記憶から消え去っていた。
この「沈黙の映画評」の一環として再見してみたら、中々どうしてそれなりにまとまった映画だった。他のあまりにも酷すぎるセガール作品に比べれば、の話だが!
しかーし。
驚くほど盛り上がらないのだ!
セガールおじさんの役は、空軍の凄腕パイロット・ジョン。何やら国家機密を“知りすぎた男”として囚われ、記憶消去の処置を施されそうになっていたがサラッと脱出。盛り上がらぬ映画はツカミからさっぱり盛り上がらぬまま進行していく。
電磁パルスが機体を包み込み「完全に姿を消す」機能を持った新型ステルス戦闘機・X-77が試験飛行中、消息を絶つ。パイロットのラッチャー(スティーヴ・トゥセイント)がアフガニスタンのテロリストに買収されていたのだ。
責任者の空軍大将・バーンズ(アンガス・マッキネス)は、町のマーケットで強盗を撃退し警察に拘留されていたジョンにX-77奪還の任務を命じる。
前半部第二のツカミは、このジョンが強盗をやっつけるアクションシーン。後で警察に「正当防衛」を主張するが、どう見てもわざわざ店外から介入して(ガラスぶち破ってまで)叩きのめしに行っている。チンピラ程度の強盗はきっちり抹殺され、殺されなくても済んだであろう店員まで巻き添えで死ぬ展開は、過剰防衛と言おうか過剰正義とでも名づけるべきか、とにかく暴力が振るえる名目があれば徹底的に振るうといういつものセガール節を踏襲している。
自身を裏切った格好の軍に再び使われることになるジョンだが、さしたる葛藤もなくサラッとこれを呑み、アフガンへ飛ぶ。相棒として同行し早々敵方の捕虜になるジャニック(マーク・ベイズリー)は台詞上じゃヤな奴みたいに言われているが、このあたりも書き込まれることなくサラッと進行。
現地にいる協力者・ジェシカ(シエラ・ペイトン)&ロジャー(アルキ・デイヴィッド)と共に淡々と敵を射殺・爆殺。申し訳程度に『沈黙の要塞』ふう棒術アクションも入るが、これも淡々とこなすのみのセガールおじさん。
クライマックスは化学兵器が搭載されたX-77を見事に奪回、操縦するジョンとF-16で追ってくるラッチャーとの空戦である。一発でも弾を喰らえば地球壊滅、手に汗握る一触即発の死闘……のはずなのだが、実物戦闘機映像と安っぽいCGの羅列で構成されたスカイアクションもさっぱり盛り上がらないままサラッと決着。
タイムリミットつき、不可能ミッションをギリギリ遂行という王道パターン。これで協力者がプロ戦闘員でない現地の素人とかだったら"Under Siege"シリーズ(『沈黙の戦艦』『暴走特急』)と同系統なのだが、全編さっぱり起伏なく淡々と流れていくのみである。細川俊之みたいな顔したテロリストの親玉(ヴィンセンツォ・ニコリ)は呆気なくラッチャーに射殺されるし、ミッション成功を告げられた空軍本部の反応もえらくクール(ここは『暴走特急』クラスの喝采があっていいと思うのだが……)。
主役のセガールおじさんが『あばれ』シリーズの西郷輝彦並みに淡々としているのはともかくとして、演出はもうちょっとメリハリをつけていいと思うゾ?
なまじストーリーが小ざっぱりとまとまっているおかげで劣化版ライバックみたいな結果になってしまった本作、観終わったあとに何も残らない。あな恐ろしや、セガールおじさんが冒頭で逃れた記憶消去の処置は、鑑賞者の側に施されてしまったのである!
かろうじて緊張感を持たせていたと思えるシーンは、潜伏したジョンを探しにきた敵方ナンバー2のレズ戦士(カティ・ジョーンズ)にジェシカが色仕掛けで迫るあたり。セガール映画恒例のおっぱいシーンなのであった。
『沈黙のステルス』 (2007年2月・米 ビデオスルー作品)
原題"FLIGHT OF FURY" =直訳:怒りの飛行
勝手に邦題『沈黙の奪還』
エグゼクティブ・プロデューサー:フィリップ・B・ゴールドファイン、ブルーノ・ホーフラー
コ・エグゼクティブ・プロデューサー:ウイリアム・B・スティークリー、ビン・ダン
プロデューサー:スティーヴン・セガール、ピエール・スペングラー
コ・プロデューサー:ヴラド・パウネスク
アソシエイト・プロデューサー:リチャード・ターナー、マイケル・ラヴィッド・ガノット、ジョー・ハルピン
原案:ジョー・ハルピン
脚本:スティーヴン・セガール、ジョー・ハルピン
監督:ミヒャエル・ケウシュ
出演:スティーヴン・セガール(ジョン)、スティーヴ・トゥセイント(ラッチャー)、アンガス・マッキネス(バーンズ大将)、マーク・ベイズリー(酒が飲める年齢のリック・ジャニック)、シエラ・ペイトン(ジェシカ)、アルキ・デイヴィッド(ロジャー)、ティム・ウッドワード(ベイツじゃないペンデルトン提督)、ヴィンセンツォ・ニコリ(面構えだけは強そうな悪役ボス・ストーン)、カティ・ジョーンズ(おっぱい要員エリアーナ)、ディヤン・フリストフ(セガールおじさんのスタントダブル)、ゲオルゲ・ザルコフ(セガールおじさんのフォトダブル)
時代劇ライフ2017年9月
無謀にも当ブログで任侠映画・セガール映画の特別コーナーを設けて不定期連載みたいな真似を始めてしまったが、あくまでアチシの行く本筋の道は時代劇である。他の脇道に力を入れすぎて本道がおろそかにならぬよう気をつけねば……。
ずいぶんと録画の溜まるテレビ時代劇、最近では、まえに録画ミスで穴を開けてしまった部分の穴埋めが増えてきている。CBCテレビ『水戸黄門』第37シリーズ→38シリーズ、BS-TBS『水戸黄門』第13シリーズ、『江戸を斬る』第8シリーズ、BSジャパン『あばれ八州御用旅』に時代劇専門チャンネル『吉宗評判記 暴れん坊将軍』など。録画失敗回を補完すべく、手元のリストと画面上の番組表を見比べ目を皿のようにしている。
過去作品ばかり大事にして貴重な新作『名奉行!遠山の金四郎』(東映/TBS)は見事に録画を失敗。前半がすっ飛び後半1時間ほどが保存されている無残な有様……。
新規の収穫は、ホームドラマチャンネルの『必殺からくり人血風編』(観たかったんだコレ)、時代劇専門チャンネル『人形佐七捕物帳』、TBSチャンネル2『天下御免の頑固おやじ 大久保彦左衛門』あたり。
そして今から胸踊らせている今月(10月)のお楽しみは、時専・林与一版にかぶせてきた訳ではなかろうが東映チャンネルの松方弘樹版『人形佐七捕物帳』。そしてBSジャパンで始まる『女殺し屋花笠お竜』だ。
女殺し屋 花笠お竜 DVD-BOX HDリマスター版 [ 久保菜穂子 ]
|
後者はベストフィールドからDVD-BOXが出ているのでアリガタ味はやや薄れるが……しかし元手不要で手中に納まるのならこれ程いいことはない。東京12チャンネルのお宝番組としては、われらが(?)三船プロ制作の『おんな組アクション控』なァんて観たい逸品なのだが、どこぞでやってくれんものかのう。
そう三船プロといえば、どうした風の吹き廻しかBSトゥエルビにて10/3(火)より『大忠臣蔵』が始まる。伊藤雄之助サマ主演……いや違ったミフネ御大主演の民放版大河ドラマ! しかしBSトゥエルビかァ……。スタンダード画面の両端にでかでかと番組名やら局名かぶせてくるBSトゥエルビかァ……。同系列のBS11と並んで、おっぱいにまでボカしかける悪名高いBSトゥエルビかァ……。
録画したところで保存版にするかどうかは考えモノかもしれない。
忘れちゃいけない9月のマイベスト収穫はこれだったかもしれない。
里見浩太朗主演の単発時代劇『新選組 池田屋の血闘』(意外やGカンパニー制作)と抱き合わせのような格好で、TBSチャンネル2で放送された『新撰組始末記』2編! KRテレビ時代の、中村竹弥主演の30分番組、貴重な現存回である。
映像史的にもこれぞお宝と言える、黎明期テレビ作品をCS放送で観ることができる、いい時代になったもんだとしみじみ思う。現実の世相がキナ臭すぎるのに目を背けてる訳じゃござんせんヨ。
任侠映画総覧計画・現代やくざ 与太者仁義
東映任侠映画を全作品残らず手元に揃える、なんて可能なのだろうか。
あのお蔵入り作品『博徒七人』まで東映チャンネルで放映され、DVDに保存することができてしまった今、あながち不可能とは言いきれないんじゃないか、なんて気がしてきている。若山富三郎の『日本悪人伝』やら『悪親分対代貸』なんてレアものまで手に入れてしまったし、このまま東映チャンネルに入っていればそのうち実現してしまうんではないか。
東映も何をトチ狂ったのか、ついにあの『江戸川乱歩全集 奇形人間』を国内盤で出してしまったくらいである。『博徒七人』だって正規にDVDリリースしてしまう可能性がある。
【送料無料】 江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間 【DVD】
|
余談はさて置き……。題して「任侠映画総覧計画」、ひょっとしたらコンプリートすることそのものは実現できてしまうかもしれないが、問題はそれを全て観ることができるかどうか。時間的な面だ。無謀だが挑戦してみるか?
今回はこちら。
現代やくざ 与太者仁義 [ 菅原文太 ]
|
『現代やくざ 与太者仁義』(1969年/東映東京)
脚本:村尾昭、長田紀生
監督:降旗康男
出演:菅原文太、田村正和、水谷良重、佐々木愛、渡辺文雄、高宮敬二、八名信夫、佐藤晟也、沢彰謙、内田朝雄、河津清三郎、池部良
菅原文太はファッションモデルから新東宝、松竹と渡り歩いたが芽が出ず、俊藤浩滋プロデューサーの引きで東映入り。当初は『俺は用心棒』などテレビの脇役やワカトミ映画『極道』シリーズの子分役などでパッとしなかったのだが、1969年『現代やくざ 与太者の掟』で売り出され、やくざ映画の主軸となるスターになった。
その続編がこの『与太者仁義』で、前作同様に一匹狼の野良犬やくざを演じている。役名も同じ勝又五郎なのだが、そこはプログラムピクチャーのシリーズもの。前後の作品にストーリー的な繋がりを見出すのは無意味である。
渡世の掟を重んじ、義理に生き義理に死ぬ侠客を描くのが任侠映画のメインストリートならば、このシリーズはその裏道を行くもので、個人としての無頼漢が大組織とぶつかり争う形になっている。前作『与太者の掟』はその中でも組織内の待田京介と絆が出来て一種『兄弟仁義』ふうの色合いがあったが、その点でいくぶん従来の任侠映画に似通った面も出てしまったきらいがある。
続く本作『与太者仁義』では、実の兄弟との相克が持ち出された。
スラム育ちの三兄弟、浩一(池部良)は大組織(組長は渡辺文雄)の幹部で、末っ子の徹(東映の、しかもこのジャンルには珍しい田村正和!)はその配下にいる。しかし徹は恋人(佐々木愛)との愛を実らせるべく、組織を抜けると宣言して逃走。
流れ歩いていた次男の五郎(菅原文太)はドライな一匹狼だが、ゴリゴリの構成員になってしまっている兄への反発もあって徹をかくまう。この隠れ先となるのが五郎の元仲間・黒田宅だが、これまた珍しい配役で黒田を中丸忠雄が演じている。
逃走前の脅迫仕事でちゃっかり大企業社長・田坂(河津清三郎)の弱みを握っていた徹は、これを高飛びの資金作りに利用しようと画策、五郎・黒田もこれに乗るのだが……。
三兄弟の構図はさながら『狼と豚と人間』(1964年/東映東京 脚本=佐藤純彌、深作欣二/監督=深作欣二)のよう。長男(豚)=三国連太郎→池部良、次男(狼)=高倉健→菅原文太、三男(人間)=北大路欣也→田村正和と置き換えてみることができる。
健サンよりよっぽどギラギラしていて狼らしい文太、組織のしがらみにガチガチの兄貴とは百八十度違ったはぐれ者はまさに打ってつけの配役で、この男を動かすものは……と思ったときに、実の兄弟同士という人間関係は実にピンと来る筋立てである。
その帰結はお定まり通り破滅なのだが、本家『狼と豚と人間』ほどまでにどうしようもなく救えない破滅ではない。最後の最後では長男・池部良もやっぱり血の通った兄弟だったのだ、という救いが見える。やくざモノを通して「酔える」作品を志向し続けた村尾昭のテーゼが通底していると言ってもいいだろう。
アイコンとしての狼・豚・人間に当てはめて見ることができるとは言え、結局のところは全員が「人間」。その人間たちが血みどろになって蠢く破滅の物語は、観る人間の心にもズシンと響く。
狼と豚と人間 【DVD】
|
沈黙の映画評・サイコ野郎はセガールおじさんの方だ『雷神 RAIJIN』
さて順不同でセガールおじさんのろくでもない映画群を紹介していこうという沈黙の映画評、行き当たりばったり手に取ったものを観ては載せていくとしよう。まず一発目は『雷神 RAIJIN』(2008)である。
いきなり結論から言ってしまうが、いただけない作品。
セガールおじさんの役どころは、メンフィス市警のジェイコブ・キング刑事。もと特殊部隊とかいった前歴はないが、少年期に双子の弟を殺されたトラウマを持つ。それゆえ異常なまでに犯罪者を憎む性質となっており、過剰なまでに悪党を叩きのめす。ザコ相手でも容赦なく、である。
って、やっぱいつも通りのセガールおじさんじゃないか。
目指す敵はシリアルキラーの“グリフター”(マイケル・フィリポウィッチ)及び模倣犯のビリー・ジョー(マーク・コリー)。捜査過程で手がかりとなるチンピラをこてんぱんにやっつけていくジェイコブ刑事。新たな被害者が出ようと、同棲相手の女巡査(カリン・ミシェル・バルツァー)が殺されようと、お構いなし。ただ悪党相手に暴力が振るえればそれでいいのがセガール流。
ただしあまりにも過剰な暴力の連発に、むしろこのジェイコブ刑事こそ一種のサイコパスなのではないかという逆説的な真実が浮き彫りになっていくのが、セガールおじさん自ら執筆した?脚本の狙い……ではないんだろうけど、ホントそうとしか見えないんだナ。
ちなみにセガール×サイコサスペンスってのは『グリマーマン』(1996)において既にやった組み合わせで、どう頑張ってもサスペンスタッチにはなりようがなくセガールオンステージの暴力ショーになることは実証済みである。
しかし本作が圧倒的に「いただけない作品」な理由は、その暴力ショーのお粗末さだ。うるさいまでのカット割りの細かさ、あからさまな吹き替えアクション。時たま申し訳程度に関節技や投げ技が挿入されるものの、基本はブン殴って蹴飛ばす単純な動作の連続で、それもセガール本人の顔を合間に挟んでスタントマンがやるばかり。挙句にスタントマン氏の顔まで映り込んじゃったりしてるんだから、もうどうしようもない。
グリフターが獲物にマーキングして残す占星術のメッセージをジェイコブ刑事が解くやら、FBIから意味もなく女捜査官(ホリー・エリッサ・ディグナード)が派遣されてくるやらの本筋(?)こそが余分なモノでしかなく、ただひたすら暴力刑事が暴れまくる映画なだけに、アクション面がそんな中途半端な代物ではモヤモヤ感が募るばかり。
おまけに、これは吹き替え不要で太ったセガールおじさん本人が演じられるガンアクションも、異様に命中率が低くモヤモヤする。
そして全編通じて高まったモヤモヤ感を吹き飛ばすどころか最高潮にまで持っていって終わらせる大蛇足のラストシーン。ぬけぬけと本宅に帰って若い美人妻とイチャイチャするジェイコブ刑事……。セガールおじさんのスケベオヤジぶりが全開になるこのラスト数分は一体何なのであろうか。あ、これこそが主目的だったとか?
残念ながら評価したくともできないのがこの『雷神 RAIJIN』。同じジェフ・E・キング監督による『沈黙の鎮魂歌』(2009)は近作の中ではトップレベルの良作だったのだが、この差は一体どうしたことか。
頑張って見どころを一つ見つけ出そうとするなら──導入部、模倣犯ビリー・ジョーが生きた女性に仕掛けた時限爆弾を解除するシーンか。
まさしくこれはセガールおじさんならではの手法で、余人には真似できないウルトラC。それは、
「即座に犯人の居所を突き止め、徹底的に痛めつけて吐かせる」
という手段。ここが本作最大の山場かつ笑いどころだろう。
雷神 RAIJIN [ アイザック・ヘイズ ]
|
『雷神 RAIJIN』(2008年/加・米)
原題"KILL SWITCH"=直訳:殺しのスイッチ
勝手に邦題…『セガールin非情のライセンス』
エグゼクティブ・プロデューサー…スティーヴン・セガール、アヴィ・ラーナー、フィリップ・B・ゴールドファイン
プロデューサー…キム・アーノット、リンゼイ・マカダム、カーク・ショウ
脚本…スティーヴン・セガール
監督…ジェフ・E・キング
出演…スティーヴン・セガール(ジェイコブ・キング)、アイザック・ヘイズ(コロナー検視官)、ホリー・エリッサ・ディグナード(癒しキャラのへっぽこ捜査官フランキー・ミラー)、マイケル・フィリポウィッチ(グリフター=ラザラス)、クリス・トーマス・キング(同僚刑事ストーム)、マーク・コリー(一番いい味を出しつつ一番痛めつけられるゲスな悪党ビリー・ジョー)、カリン・ミシェル・バルツァー(セリーヌ巡査)、ウォルコット・E・モーガン(バーで痛めつけられるチンピラ黒人レオン)、ダニエラ・エヴァンジェリスタ(とばっちりを喰う気の毒なバーのねえちゃん)、アンドレア・ステファンキコワ(えせストリップしてジェイコブとイチャつくロシア人妻)、ディヤン・フリストフ・ゲオギエフ(セガールおじさんのスタント)、ニコラス・ハリソン(セガールおじさんのスタントその2)
沈黙の映画評・俺はそれでもセガール映画を観るぞ
まずタイトルは四方田犬彦の本のタイトル(『俺は死ぬまで映画を観るぞ』)をもじっただけのものであることを初めに断っておく。別にそれほど強い信念がある訳じゃないので誤解をしないで戴きたい。
アチシが時代劇に親しみ始めたのは、小学校高学年くらいの頃からだろうか。徐々にマニア化の一途を辿り、後戻りのできない冥府魔道へと立ち入ってしまい現在に至る訳だが、それとほぼ時を同じくしてもう一つ恐るべき道に足を踏み入れていたのである。
洋画ウォッチャーの中には少なからず同じ道を歩む御仁もおられよう、抜け出そうにも抜け出せない「セガール道」とでも呼ぶべきものである。
今はなりを潜めてしまって久しいが、かつて民放各局は洋画劇場の枠を持っており、メジャー大作からB級ゲテモノ映画まで幅広い洋画を毎週放映していた。90年代はアーノルド・シュワルツェネッガーやシルヴェスター・スタローン、ブルース・ウィリスなどのアクション映画がそれら洋画劇場枠の定番だった気がする。
そんな中に混じってやはり常連だったのがスティーヴン・セガールだ。
アチシが最初に接したのは(幸いにも)デビュー作である『刑事ニコ/法の死角』("ABOVE THE LAW" 1988年)で、素晴らしくキレのある体術、凛々しくエネルギッシュなヒーローぶりに「この俳優は凄い!」と心から思った。
当時は「スチーブン・シーガル」とか「スティーブン・セーガル」など表記も一定していなかったこの俳優、まことしやかにモノホンの元特殊部隊員みたいな謳い文句で売り出され、実際そうであったとしてもおかしくないような理に適った身体操法、プロっぽい武器捌きを使って独自のアクションワールドを作り上げていた。
初期作品の『ハード・トゥ・キル』『死の標的』『アウト・フォー・ジャスティス』『沈黙の戦艦』など、本当に面白かった。テレビ放映はもとより、ビデオレンタルなどでもセガール映画を求め片っ端から鑑賞したものだった。
ハリウッドのアクション映画といえばガンアクションに爆発、ひたすら火薬、火薬でドッカンドッカンうるさいものと思ってあまり好きでないのは、アチシの現在に至るまで続く嗜好である(同じ理由で石原プロの刑事ドラマも大嫌いだ)。セガール映画も火薬使用量は結構なものだが、それを上回る体術アクションの美学があり、好きになれたのだ。
少なくとも、昔は。
時を経るごとにその肉体を膨張させ続けていくセガールおじさんは、すっかり往時のキレを失っていった。
アクションも合気道の応用技はどこへ行ったのか、単純な殴る蹴るの連続が多くなり、しかもそれさえセガール本人がやるでなし、スタントダブルを使用。切り返しで本人の顔のアップを挿入するというサボりアクションでお茶を濁すようになった。
ソフトのパッケージや予告編では“セガールアクション”だの“セガール拳”といったアオリ文句が使われるが、冗談言っちゃいけない、特色であった合気道などの格闘技を使わぬアクションはセガールアクションと呼べるもんじゃない。
刑事ニコ/法の死角/ハード・トゥ・キル [ スティーヴン・セガール ]
|
それでもセガールおじさんは性懲りもなく主演作を連発、本国アメリカではビデオスルー作品に落ちていても、日本では根強い人気を保っているため小規模な劇場公開もされ、レンタル点にはお馴染み『沈黙の〜』と冠された新作が並び続ける。
「どうしようもねえなァ」
半ば呆れた呟きを漏らしつつ、手に取ってしまう。
観てガッカリさせられるのを承知で、それでも少しでいいからかつてのキレを思い出させるアクションを見出せはしないかと、一縷の希望をかけてブクブク太ったセガールおじさんの映画を観てしまう。観る度に大ブーイングしながら。しかしそのどうしようもなさをこよなく愛しながら。まさしく後戻りのできない冥府魔道だ。
それでもアチシはセガール映画を観るぞ。
てな訳で、長年のセガール愛好家の一人として、このブログでも新旧の順にこだわらずセガール映画のレビュー(題して「沈黙の映画評」)を不定期に載っけていこうと思う。
願わくは、セガール道に踏み込もうとする迷える仔羊たち(注・「沈黙」にかけている訳ではない)たちの手引きにならんことを……。
現時点での最新作はコレか。 沈黙の激戦 [ ラッセル・ウォン ] |
兄弟仁義
CSに加入していると、つい「リピート放送があるから……」と油断して録画逃しをすることがある。東映チャンネルで任侠映画のシリーズものを随分と予約漏れで逃したものだ。以前は口惜しがったり落胆したりしたものだが、この頃では「またちょっと間を置いて放送してくれるから……」なんて大分厚かましくなってきている。
それでも録り溜めディスクの確認をしていて「あれっ、これの第一作ってなかったっけ!?」なんて後からショックを受けることもある。
『兄弟仁義』も第一作を録り逃していたシリーズだった。プログラム・ピクチャーのシリーズものなんて一策毎に独立した別の話で、一種パラレルワールドみたいなものなので順を追って観る必要などないのだが、何となく『続』から入るのは気分が落ち着かない。そんな訳でこのシリーズ、溜まってはいるものの手をつけられずにいたのだが、このほど日本映画専門チャンネルにてシリーズ一挙放送ということでプログラムに組み込まれ、ようやく一作目を録画することができた。
|
|
『兄弟仁義』(1966年/東映京都)
脚本:村尾昭、鈴木則文
監督:山下耕作
出演:松方弘樹、北島三郎、宮園純子、安部徹、待田京介、人見きよし、香川良介、村田英雄、鶴田浩二
弟分(人見きよし)と組んでケチなイカサマ博奕を打っていた流れ者・貴島勝次(北島三郎)。上州は草間の湯元でイカサマを見抜かれ窮地に立つも、鳴子組親分(村田英雄)の度量に救われる。肝胆相照らす仲となった代貸の勇吉(松方弘樹)とは晴れて兄弟分となったのだが、湯元の権利を狙う鬼頭組親分(安部徹)の差し金で鳴子親分は暗殺されてしまう……。
ご存じ北島三郎の大ヒット曲を受けて作られたそのまんまタイトルの任侠映画。サブちゃんが映画俳優としてはまだ海のものとも山のものともつかぬ存在だったためか、モノクロの低予算作品である。クレジットも松方/北島の二枚看板となっており(サブちゃんはその二番手扱い)、おまけに実質の主役は友情出演扱いの鶴田浩二だったりする。
親分を殺され頭に血が昇った松方兄ちゃんが殴り込み。しかし果たせず刑務所行き。親分の遺言で一家ともども堅気になったサブちゃん、それでも横車を続ける安部徹親分とサシの勝負で権利書を奪還するのだが、奇襲を受けて無念の最期を遂げる。
そう、第一作ではサブちゃん死んでしまうのである。これは知らなかった驚いた。んで、出所した松方がリベンジ戦……かと思いきや、足を洗った風呂屋は引っ込んでなはれとばかりに鶴田のオヤジがおいしいとこ取り。サブちゃんの歌唱する『兄弟仁義』をバックにただ一人殴り込んでいくのだった。まるで『昭和残侠伝』の池部良がひとり歩きしたが如き展開!
松方/北島のシャシンではいかにも弱いだろうという興行的な意図が見える作りではあるが、この映画もちゃんとヒットして次作からは名実ともに北島三郎・主演のシリーズとなっていく。その歩み出しの第一作は後年の目から見るとなんだか新鮮なようでもあるのだった。
薄気味悪い待田京介のヒットマン(こういった役は沼田曜一向きだが)に急襲され相討ちに持ち込んで絶命する鳴子親分の娘には宮園純子が配されており、これがなかなか良かったりする。代貸の松方と恋仲ってのはよくある役回りだが、親分の遺言を受けてのやくざ廃業宣言のあたり、なかなかどうして任侠映画の添え物になりがちな女性キャラクターとしては毛色の違った“もの言う女”ぶり。このあたりは鈴木則文の筆が活きているんではないかと勝手に想像するのだがどうなんであろうか。
男涙の破門状/戦後最大の賭場
一日一本任侠映画を観ようとか無謀な野望を抱いたって、なかなかできるもんじゃない。しかしコンスタントに観続と思ってりゃ、それなりにDVD消化作戦は進んでいく。
とにかく任侠映画は、石を投げれば村尾昭に当たるってくらいこの人の脚本が多い。今回観た二本は偶然ながら村尾昭&山下耕作のコンビ作品だが、毛色はまるで違っていて面白い。
『男涙の破門状』(1967年/東映京都)
脚本:村尾昭
監督:山下耕作
出演:鶴田浩二、待田京介、大木実、嵐寛寿郎、天津敏、桜町弘子、橘ますみ、村井国夫、遠藤辰雄、石山健二郎
おつとめ中の兄貴分・菊石直治(鶴田浩二)に義理立てし、組の金を持ち逃げした伊之助(村井国夫)を庇って口をつぐんだ向坂銀三(待田京介)は破門される。
直治が出所したときには、銀三は決着をつけるべく伊之助を追って九州へ向かった後だった。銀三のあとを慕って親分(嵐寛寿郎)の一人娘・おふみ(橘ますみ)も出奔。これを連れ戻す役を買って出た直治の本心は、銀三の真意を確かめることにあった。
九州で草鞋を脱いだ岡崎一家(親分に石山健二郎)はお約束どおりアコギな敵対勢力・財前組(親分は天津敏)に利権を狙われており、しかも財前組には伊之助が客分として抱えられている構図。
兄貴分が大事にしている人物だからと思って断固言い訳をせず破門を受け入れる待田京介に、仇敵として鶴田浩二との対決を望みながら切羽詰まった事情を汲んで延ばし延ばしにする大木実など、浪花節的な美学をこれでもかと匂わせる面々に取り巻かれて、主役の鶴田浩二も二言目には「男」の語を振り回す。
全盛からマンネリ気味に移っている時期に撮られている作品でもあり、任侠映画の一番よろしくない部分が表れた一本かもしれない。男伊達の押し売りじみた部分と言おうか……。
個人的に、関西弁を喋る役のとき鶴田浩二が発する台詞として、最も魅力的に響く語句は「アホンダラ!」という一言だと思っているのだが、本作ではその一言もどことなく上滑りして響かない印象。
こうした惰性的になった任侠映画に一石を投じたのが、かの『博奕打ち 総長賭博』(1968年)と捉えられる。脚本を書いた笠原和夫は、著書の中で「分かり合える」のが当然のような侠客同士のやりとりに違和感を抱き、そのアンチテーゼとでも言える「分かり合えな」さから起こる崩壊の劇を作った、というようなことを語っていた。
博奕打ち 総長賭博 [ 鶴田浩二 ] |
そんな作品の前と後では、他の作家が書く物語もまた影響されて変化するものだろうか。王道パターンの中心核といえる村尾昭の脚本作品でも、がらりと趣きが違うのである。
戦後最大の賭場 [ 鶴田浩二 ] |
脚本:村尾昭
監督:山下耕作
出演:鶴田浩二、高倉健、小山明子、安部徹、山本麟一、金子信雄、八代万智子、名和宏、清水元、志摩靖彦、沼田曜一
舞台は昭和37年の大阪。全国の暴力団が右翼大物の声がかりによって大同団結した「大日本同志会」の関西支部理事・流山組長が急死。その後釜には流山二代目を継いだ本庄周三(高倉健)が妥当とみられたが、本庄を貫禄不足として丸和会会長・岩佐(安部徹)が名乗りをあげる。
鶴田浩二演じる主人公・五木は、岩佐の子分でありながら本庄とは兄弟分の盃を交わした仲で、おまけに同志会理事長・菊地(金子信雄)の娘婿でもあるという三重の板挟み。これでもかという辛抱立役だ。
争いたくはないが、立場上、敵味方に分かれざるを得ない二人。鶴田・高倉ツートップの共演作として本作は傑作の部類に入るだろう。
予定調和に流れるでなく、うまく噛み合わない歯車が悲劇に向かうドラマ性。中でも最もつらい立場に立って死地に突っ込む役どころを与えられているのが山本麟一というのも効果的な配役だ。
やくざとしての筋を律儀に守り抜こうとしたがために、最も筋の通らない結果を呼んでしまった男が、最後に選んだ決着は、二人の親(親分と義父)を殺すこと。
ラスト、祝宴の席から廊下に出た鶴田浩二が、鏡に映る自分の血まみれの姿を目にして見せる表情は、『総長賭博』における「俺はただのケチな人殺しだ」の台詞に匹敵するカタストロフィの結晶だ。