任侠映画総覧計画『日蔭者』
鶴田浩二のヒット歌謡曲を材に得た任侠映画、といえばまず『傷だらけの人生』二作が浮かぶが、この『日蔭者』もご同様。まさに任侠映画の性格をずばり表したようなタイトルだ。
ピークを過ぎ斜陽期になってきている72年という製作年も、“日蔭”の感を一層高めているかのよう。鶴田浩二が代表格であるようなモラリスト的やくざ者像はどんどん色褪せて、もっと生々しく過激なものが主流となっていく時期である。現に70〜72年ごろの東映では、鶴田浩二もそうした潮流に呑まれていたが、やはりマッチしたとは言い難く、新しい波には菅原文太や渡瀬恒彦といった面子が乗っていった。
時代に逆行するかの如く、筋道を守った昔気質が新興の勢力に立ち向かう。任侠映画の基本的な図式だが、そんな任侠映画という路線そのものが自らの内容を体現しているかに見える末期症状と言えなくもない。この時期の任侠映画、また看板を負って立つ存在である鶴田浩二その人にも、一抹の翳りじみたものが感じられて、何となく物悲しい気分を誘う。
けれどこの『日蔭者』、アチシとしちゃ好きな作品である。
『日蔭者』(1972年11月/東映京都)
原案:藤原審爾/脚本:棚田吾郎
監督:山下耕作
出演:鶴田浩二、松尾嘉代、加賀まりこ、葉山良二、待田京介、天津敏、汐路章、林彰太郎、東竜子、梅津栄、高宮敬二、山本麟一、内田朝雄、池部良
主人公の小鉄こと小池鉄太郎(鶴田浩二)は、昔気質の松尾組で総長(内田朝雄)からの信望も厚い存在。大戦に召集され、傷痍軍人として戻ってみると、親方日の丸で憲兵連中を後ろ盾にのしてきた栗原組(親分は天津敏)が幅を効かせており、松尾組の中にも栗原組へすり寄ろうとする幹部がいるなど、難しい局面を迎えていた。
総長は寄る年波で、若衆頭の伊三郎(葉山良二)がその娘婿になっている。総長の娘・雪江(加賀まりこ)はかつて小鉄に惚れていたが、縁談は小鉄の方から断っていた。というのも小鉄には他に惚れた女・小りん(松尾嘉代)がいたため──。と、これまた別の意味で難しい事情があとで活きてくる。
小鉄を大いに買っている総長が、対栗原/軍人の対応をかれに一任したことで、内外ともに敵が増えていく。正式に跡目と決まっている訳でもない一幹部、それも出戻って間もない半分よそ者に近い男が……と面白く思わない者が、当然いる。
内部の敵は、伊三郎の片腕である武司。演ずるは、待田京介だ。善玉をやってもハマるが徹底したワルも様になる。栗原組と手を結ぶ思惑が外れて荒れる幹部・矢野=山本麟一を事故に見せかけ殺したり、伊三郎を跡目にと雪江を焚きつけ親殺しをそそのかすなど、小鉄の台頭を阻止すべくコソコソ動く薄気味悪い男で、これが一貫して伊三郎への忠義というのだったら、本作の印象はもっと変わっていたろうが、けっきょく武司は己の欲心が主であった。雪江を押し倒すあたりからチンケな本性が露わになってきて、悪事がバレるや伊三郎を刺し栗原の懐へ逃げ込むに至って、ただの小悪党でしかなくなる。本作の残念なところは、ひとえに武司のキャラクターだったかもしれない。
意地を通して、軍が狙う土地を守ろうとする小鉄。その意地が最終的には単身の殴り込みへと結実していくのは、お定まりの展開。
鶴田浩二は、これでもかという正統派任侠映画の主人公を演じている。横暴な権力に擦り寄る“ただの暴力団”になることを拒み、組織内での栄達を望む訳でもない、ひたすら“日蔭”をすすんで歩く。所詮やくざ者でしかないという自覚からの、マゾヒスティックなまでの裏目張り(68年『解散式』で使われていた形容ですナ)は、ややもするとイヤミったらしくなるところだがそう見せないのが絶妙。賭場でのいざこざを収め、伊三郎の責を不問に付すべく総長に指を差し出すシーンなど、そのさりげなさが抜群に格好良い。長谷川伸の世界に近いような、日蔭を行く人間のヒロイズムを見事に体現している。
画面から漂う情感で定評のある山下耕作監督は、本作でもその手腕を発揮して小鉄と小りんのさりげない会話もしっとりとした良いシーンに仕上げている。一時の邪念に負け、とんでもない顛末を呼んでしまった雪江の悲劇も、プクプクした愛らしい赤ちゃんの画を挟み込んで効果的に際立たせている。
どうしても似たり寄ったりの内容になりがちな任侠映画というもの、配役の好みやディティールなどによって観る者それぞれの好き嫌いは決まっていく。その点でいくと、アチシが本作を好きな作品と言い切る最大の理由は、何と言っても内田朝雄の配役だろう。
珍しく徹頭徹尾善い親分である。ポジションとしては、嵐寛寿郎がよく演っていた寝たきり親分に近いが、生臭い欲望亡者の役が多い内田朝雄が演じていることによって感動がいや増す効果がある。小鉄の腹中を敏感に察した上で、自身にはね返ってくる火の粉も恐れず責を負う覚悟がある親分。その恩は、さらに小鉄をして裏目裏目へと張らせる原動力になってしまう。内田朝雄の善人役のなかでも、ベストに近いオイシイ役だったかもしれない。
最後に、池部良について。
小鉄の立場に寄り添うが如く、静観している幹部のひとり・高石。肺病病みで、時おり咳が止まらなくなる高石がこの映画の中で担う役割は、もう登場した瞬間から観る側には判っているようなものである。
カビ臭い任侠道にしがみついた小鉄が、決死の覚悟で向かう殴り込みには当然、ヒットソング「日蔭者」が被る。ここで風間重吉よろしく高石がユラリ……と現れたなら、もはやギャグにしかならない。
肺病やくざの高石は、斬り合いが始まってからしばし、裏手から逃げようとする武司に通せんぼをするかの如く現れる。「やっぱり!」な見せ場ではあるが、かれはわずかに下っ端を斬っただけで発作に襲われ、武司を仕留めることも叶わず返り討ちにされてしまう。
バリエーションの変化としてこうなったに過ぎないことではあろうが、何とはなしここにも任侠映画の斜陽を見るようで、物悲しい思いが去来するのであった。