任侠映画総覧計画・幕間
任侠映画という呼称、思えばひどく漠然としている。大きなくくりで捉えてしまうと、「任侠精神を持った主人公の登場する映画」ということになるだろうか。
間違っちゃいけないのは任侠=やくざではない点。実際、東映任侠路線華やかなりし頃の代表的シリーズ『日本侠客伝』の主人公たちは、やくざではない場合もあった。鳶職なり人足なり、男を売りとする稼業の“侠客”たちであった。
日本侠客伝 [ 高倉健 ]
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とはいえ圧倒的にやくざモノが多いこのジャンル、昨今レンタル屋で「任侠」とカテゴライズされた棚を見れば、小沢仁志のVシネなどがわらわらと並び、すっかり「任侠=やくざ」の図式は定着している気がする。
では任侠映画とは単にやくざ映画の別名なのか? そう決めてしまうのには待ったをかけたくなる。この言葉からイメージされるのは、Vシネや実録モノ、それに近年の『アウトレイジ』などを除く往年の鶴田浩二、高倉健らが看板を張っていた東映映画群である。
ひとまず東映以外──同時発生的に作られていた『関東無宿』『東海遊侠伝』『男の紋章』といった日活作品や、完全に後追いの格好で始まった『若親分』『女賭博師』シリーズなどの大映作品なんかは、ここではさて置くとしよう。やっぱりこのジャンルの牽引者は三角マークの東映だ。
東映任侠路線の幕開けは、1963年の『人生劇場 飛車角』とする説と64年『博徒』とする説、ふた通りある。どちらかといえばメロドラマ調の前者を「あんなものは任侠映画やない」と一蹴する小沢茂弘監督の“手柄顔”じみた主張のせいかもしれないが、やはり『飛車角』は東映がこの路線に乗り出すきっかけを作った先鞭的な役割を担ったとみていいだろう。原作を離れ『続』『新』まで作られた『飛車角』は、三本とも『博徒』以前に封切られているが、笠原和夫の筆によるこれらの脚本には紛れもなく後年の任侠路線作品群に通じる遺伝子が流れていた。
人生劇場 飛車角 [ 鶴田浩二 ]
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『飛車角』以前には石井輝男や井上梅次監督によるギャング路線を放っていた東京撮影所は、任侠路線が波に乗ったのち主として背広やくざを主人公とする現代ものを、そして京都撮影所では、それまでの主流だった時代劇からの連続ともいうべき着流しやくざの近代ものを続々と製作、東西ともに数多のシリーズを抱え任侠路線全盛期を作った。
仁義なき戦い [ 菅原文太 ]
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そんな流れを変えたのは、今更くどくど述べる必要もなかろう73年『仁義なき戦い』に始まる実録路線の登場。きれいごとを取り去った生々しい迫力の現代やくざ像を叩きつける“実録ショック”は、いい加減マンネリに陥ってきていた任侠路線をより色褪せたものにしてしまった。それでも、従来の任侠映画は即座に滅びた訳ではない。実録路線と併走する格好で、しかし既によりどころを失くした心細さを抱えるように失速を続け、やがて実録路線の終焉とともにひっそり幕を閉じていった。
おおまかに区分をすると1963〜1976年頃が、以上の出来事に相当する、任侠映画の位置する年代である。
難しいのはこの時期の東映映画、任侠路線か否かの線引きがしづらいものが多いのである。大体において東映映画、みんなやくざっぽい。一般には任侠映画扱いされる『網走番外地』にしたって、正確に言うなら活劇アクション映画のくくりに入れるべきだろう(『新網走番外地』シリーズは石井輝男監督の手を離れ、通常の任侠路線に落ち着いたと言える)が、何しろ主人公はやくざである。逆に一連の梅宮辰夫主演スケコマシ映画なんかは任侠映画とは見なされないものの実にやくざっぽいし、女番長モノだってやくざっぽさ満点である。
乱暴にまとめてしまうと東映=やくざ。従って全ての東映映画は任侠映画である! なんてことになりかねない。
反対に、極めて狭義の捉え方をするなら、任侠路線=俊藤浩滋という見方もできる。この路線の立役者であるプロデューサー俊藤浩滋の製作したものこそが任侠映画だ、と原理主義的くくりをしてしまったら楽チンかもしれない。が、そうなると明らかに任侠路線の一環でありながら非・俊藤プロデュース作品ということで省かれてしまう作品も出てこよう。
そもそも映画をジャンルでくくるのは間違いであるかもしれない。逃げを打ってこんな結論に落ち着いちまってはミもフタもないが、心の底ではこれがアチシの本音である。しかしそれでは収まりがつかない。頭をひねって何とかここでの「任侠映画定義」を打ち立ててみよう。
- まず『人生劇場 飛車角』をもってスタートとする。
- 俊藤/非・俊藤プロデュースを問わず、当てはまりそうなものは任侠映画と見なす。
- 背広の現代やくざが跋扈する暴力団モノも含む。
- そして世間的に「実録」路線と言われている作品は、「任侠」路線とは区別して扱う。
- 『不良番長』『ずべ公番長』『女番長』シリーズなどは……含めちまってもいいんじゃないか。
割と幅広く視界を取っておくことにしよう。だからもちろん『網走番外地』だって任侠映画のくくりに入れちまおう。
あまり難しく考えないで「任侠映画」という作品群を捉えてみると、63年〜76年頃の“それっぽい”映画すべてがこの中に入ることになる。わが「総覧計画」はこれらを対象に進んでいくのである。これにて定義終わり。
ダイナマイトどんどん [ 菅原文太 ]
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ところで。
すっぱりと76年『北陸代理戦争』をもって区切りとされる実録路線に対し、任侠路線は立ち消えのような格好で、終わりどころが明確ではない。一体どの作品をして東映任侠映画の終焉と見なすべきであろう。ずるずる年代も下って俊藤浩滋がプロデュースした84年『修羅の群れ』85年『最後の博徒』あたりか。しかしあれは、夢よもう一度とでもいうように一瞬のみ復活した“燃え残り”ではなかったか。
では77年〜78年『日本の首領』シリーズは。あれも任侠路線とも実録路線ともつかぬニューウェイブの珍作で、むしろ後年の『極道の妻たち』シリーズに近いドラマチックなファミリー映画(注意、ファミリー向け映画の意ではない!)だった。
そう思うと、任侠映画を看取った最後の作品というのは、もしかするとアンチテーゼを多分に含んだ倉本聰脚本を土台に三角マークの京撮へ健さんがカムバックした『冬の華』あたりかもしれない。
はたまた、ハチャメチャにやくざ者たちがそのやくざ者であることを笑いの武器に昇華させられた岡本喜八の快作『ダイナマイトどんどん』か(徳間康快の新生大映製作だが配給は東映)。
ちなみにこの二作も、ちゃんとプロデューサーとして俊藤浩滋は絡んでいる。
最後の任侠映画。これもまたよく見極めて考察してみたいところである。
冬の華 [ 高倉健 ]
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